9月のポレポレ俳句部の報告です。初めに全員の句をざっと紹介します。9月のお題は「蜩(ひぐらし)」「法師蟬」「秋の蟬」でした。
つくつくし十円玉の浄土かな(紙の舟)
かなかなにミシン油を注す仕事(松竹梅)
蜩や栞挟まれたるままに(のん)
蜩の声は届かぬ町の暮れ(楽来)
私の<your song>を真似る若猫(森の中の田んぼ)
さて、今回は執筆者の特権で、私(=楽来)の句について話したいと思います。今日は9月20日で、俳句部の日から10日程経ってるんですが、私の心には、まだ後悔の気持ちが残っています。私の句は、最初は次のようなものでした。
蜩の警笛遠し街の暮
ところが、というかやはりと言うべきか、皆さんの反応は、蜩の声を警笛と表現するのは違和感がある、というものでした。
私は自分で言うのもなんですが、ちょいとお人好しみたいなところがありまして、皆さんのご意見もごもっとも、ということで警笛という言葉を捨ててしまいました。それで最終的には上記のような句になったんですが、その場では私も納得したつもりでいたんです。
私は、自分のことを心の広い寛大な男だと思っていました。小さな事には拘らない柔軟な心の持ち主だと。でも、残念ですが、本当に残念なんですが、そんな男ではなかったことを告白しなければなりません。
蜩の声に警笛の響きを感じとるという感性は、どうやら私の根本的な思想に関係するものだったようです。私には「人類の存在そのものが罪である」という捨て難い思想があります。これは端的に間違った考え方だと思いますが、ふがいない人生を送ってきた53才の人間には、手離し難い世界観なんだと思います。
自分の生き様を正当化するような思想に、人間というものはしがみついて生きている。今回、改めてそのようなことに気付かされました。
こんな文章を書いて私が一番恐れるのは、俳句部の雰囲気が何か遠慮がちなものになることです。それは本当に困ります。今回私が体験したことは、何かに傷ついたということではなく、等身大の自分に出会えた、ということです。人は他者を発見することで、自己を発見することができます。俳句部のような場では、参加者が自分の感じ考えた事を自由に発言できることが、何よりも大事な事だと思います。私もこれまで同様ざっくばらんにやっていきますので、これからもよろしくお願いします。
ポレポレはざっくばらんな句会だよ
●今回の執筆者
楽来/自己評価が両極に振れる癖あり。
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次回の俳句部は10月8日(土)です。
10月のお題は、「猿酒」(ましら酒)
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